ラーコモなんもないやん

「お前は、生きたいと思ったことはあるか?」

彼の問いかけに、私は無言を返した。

「いやいや、そんな大層な話じゃないんだ。ただ少し気になってさ」

「その文言を並べておいて、『大層じゃない』ってことはないだろう」

夕刻の河川敷、目の前の河原では小学生らしき男児が石を投げて遊んでいる。私と彼の後ろを、両手にスーパーの袋を三つ四つ下げた主婦らしき女性の自転車が通り過ぎていく。そんな場で生死を話題に挙げる彼の思惑を知ることなんて到底不可能だろう。

「軽く考えてくれよ。例えば、そうだなぁ......お前が、山で遭難したとしよう」

「俺は山になんて行かないよ」

「じゃあ、川で溺れるでもいいよ。とにかく、何らかのことが原因で不本意にも生命の危機に立たされる瞬間が来たとする。その時、たいていの人は自分が生存するという道を探し続けるらしい。まあ俺はそんな状況になったことがないからわからないけど」

「当然じゃないか。誰だって、何の抵抗もなく死ぬ運命を受け入れるはずはない」

その返答を待っていたように、彼は口元を緩めた。

「そう、そこなんだよ」

「死ぬ運命を受け入れないってことは『生きたい』という願望が芽生えたってことだろ」

「何が言いたい?」

「その時に人は考えないのかなって思ってさ」

「何をだよ」

「生きた先に待っている絶望だよ」

彼の尤もらしい口調とは対照的に、私はいまいち彼の言っていることを飲み込めないでいた。

「絶望?」

「そう、絶望だな」

「今のおまえにもあるだろう。生きている中で嫌に思う瞬間ってやつが」

その言葉に呼応するように、私の脳内に蓄積されていた普段の私の感情が呼び起こされる。先の見えない生活に、減るだけで一向に増えない口座残高。友人関係に潜むしがらみに忘れ去っていたはずの過去のトラウマ。

「それを抱いているお前が、今仮にさっきみたいな状況になったとして、それでもなお『生きたい』と思えたら、それはすごいことだと思うんだ」

彼の言う「すごい」には、称賛以外の何かが含まれていることは明白だった。皮肉だけかもしれないし、もしかしたらそれ以上のものかもしれない。

「片足を亡くした俺には、絶対に思えないことだからな」

彼はそう言い放って、顔を上げた。茜色の空に浮かぶ黒い雲、その脇をかすめるように、数羽のカラスが飛んでいた。

「別に、生きたくなくてもいいんじゃないか?」

求められていないとは知りつつも、抑えることもせずに心の声をこぼした。

「残念ながら、俺は『生きたい』と思って今ここにいるわけじゃない。どうせ、お前も、あの子供だってそう思っているわけじゃないんだ」

「ただ、流れに逆らうだけの理由がないんだよ」

「坂道を転がり落ちていく自転車には必死でしがみつくもんなんだよ。例えそれがオンボロの自転車でも、その先に崖があっても」

「その自転車を失った瞬間、本当に人は死んでしまうんだ」

「自転車が壊れたらどうするんだ」

「その時は、ソリにでも乗ればいいよ。そっちの方が案外乗り心地がいいのかもしれないな」

「そうまでして坂道を下って、何になるんだ? 坂道の下に何があるわけでもないだろう?」

「そうだな、何もないよ」

「じゃあ行かなくていいじゃねえか。そんなところ。俺は坂道の途中で自転車から手を離すよ」

「それもいい考えだな。ただ、その考えには一つだけ言いたいことがある」

「なんだ?」

「お前が持っている自転車は、手放すには惜しい代物かもしれないってことだ」

気がつけば、河原で遊んでいた子供はどこかに行ってしまったようで、河川敷には私たち二人以外には誰もいないらしい。私はズボンについた土草を掃いながら腰を上げた。

「そろそろ晩飯の時間だな。どこに行こうか?」

「鍋にしよう。今日は冷える」

「そうだな」

私は彼の車いすを押して歩き出す。下流の方角へと車輪は回り始めた。